ガシッ ボカッ ある種のアタシは死んだ(笑)

なんとなく、「親友とはしばらく距離を置くだろう」と思った夜だった。
大好きな子なんだけど。話が途端に出来なくなってしまった。向こうの環境が変わっただけで、話が出来なくなったのは自分でしかないのだが。今一番の悩みはもう話せなくなってしまった。話せば、真摯に聞いてくれるとは思うけど、私の方が躊躇う。負担をかけたくないと思うから。あまりにも環境が違いすぎた。
こんなことで距離を置くなんてバカだなあと思うけど。私は母校を愛しているので、母校出身者の子たちとはどんな状況でも一瞬であの頃の獣のままで話せるのが好きだったんだけど、まぁ、無理である。無理かな。無理だなぁ、もともとあの子のこと獣だとは思ってなかったもの。きちんとした人間だと思っていたもの。
まぁ、バイオリズムみたいなものだから、星の軌道のようなものだから、またいつか出会うことがあるでしょう。嫌いになったわけではないので、またいつか。またいつか一対一で話せる時が来ることを願っています。大好きよ。25周年の時こそは、って思っていたけど無理かもしれないね。それでも好きよ。

「名前がついた方が楽なことがある」のをよく知っているので、今の自分にフィットする星占い*1をわりと信じてしまう。後付けこじつけだけど。
まさにその通りだなーと思う。自分としては、親友方面にそうなるとは思わなくて、新たなものが出来ると信じていただけに、「そっちかよ」とがっかりきている。いや、まだわからんよ。あと3ヶ月あるよ2021年。あるのかなあ。希死念慮がますます酷い。睡眠時間を増やせば変わるのかなあ。何が?
人生が。
気付けば二次元に舞い戻った夏から一年が経っていた。けど、楽しいわけじゃないなあ。
何をしたって、「自分の世界は自分が回す」と思えたらどんな世界でも楽しめると思うけど、振り回されててしんどい。選んだわけじゃないと思う。選びたい。でも早く死にたい、畳の上で、身辺整理して、眠るように痛くなく。死に方くらい選ばせてほしい。何も持てなかったというか、持ち方がわからなかったので。

*1:ここ5年くらいは石井ゆかりさんがすっきりと押し付けがましくなく当たるのです

指輪を作りたかった

出会って21年目となる親友との付き合い方がわからなくなっている。
彼女は結婚して子供が生まれて数ヶ月だ。変化した生活を思えば、付き合い方を変えるのは当たり前のことだ。
でも、その部分がわからないんじゃない。
昔から彼女に思っていた部分が露呈したから、わからなくなっている。彼女は男女については古式ゆかしい考え方の部分がある。フェミニズムを学ぶ前どころか物心ついた頃には「それはおかしくないか?」と思う幼少だった自分にとっては驚く部分がある。その発想はなかった、的な。ただ、人に押し付けるわけではないのと、「自分はそう、というだけだ」という付き合い方が出来る、賢い女性だと思う。リベラルだと思う。はるかに私より。

だけど、一対一で話す時はうまく隠れているけれど、たとえば三人や四人で話した時に配偶者、子供を優先した話をするのだ。旦那さんはいいの? 子供はいいの?
結婚してなくても子供がいなくても、都合をつけるべき都合はあるだろうに。

というよりは、寂しいのかもしれない。
感覚としては、ポッと出の人間に親友を取られた気持ちに近い。
親友なれど、私がこんなんだから恋愛相談など受けたことはない。相談は適材適所だから別にそれでいい。結婚報告はどうやら私が一番最初だったらしいので充分です。でも、たまに、去年感じた、ああこの子はちゃんと好きな男の人に頼ることが出来る子だったんだなあ、私は知らなかったんだよなあ、って、まるで失恋したような気持ちを思い出す。

話が逸れた。
付き合い方がわからなくなっているのは、そういう気持ちもあるけれど。もっと単純に。


私は彼女と、私たち自身の話をしたいんだ。
配偶者や子供の話が嫌なんじゃなくて、彼女が自分のこととして話す配偶者や子供の話が聞きたい。

でも、結婚以降、出産以降、それが難しい。
もともと、そういう思考の彼女だったけどさ。別の友人の結婚祝いのプレゼントを何にしようと話した時に「二人で使えるもの、新居で使えるもの」、出産祝いに「スタイやタオル、おむつケーキ」と挙げる人だ。それも選択肢だけど、私はプレゼントするその友人に対して何かをあげたいと考える。だから大抵プレゼントが二つになるんだけど。そして、実際に親友の出産祝いにお子さん用とは別便で彼女へのプレゼントを贈ったらば、「貰えるとは思わなかった」と言われてしまい、泣きそうになった。正直言って落ち込んだ。もちろんあなたの家族を否定したいわけじゃない、でも私はあなたの友達なんだよ。

身の回りの状況によって変化するのは仕方ないから、友人である自分は、自分だけはせめて、「個」として彼女を扱いたいのだ。
肩書きではなく名前で呼びたいのだ。
それが出来ないんじゃないか、と心が折れそうになる。最近彼女と話していると。



そして、その親友含めて大体三人で話すことが多いグループLINEがあるのだが、この度もう一人の友人も妊娠したので完全に話題が置いてけぼりになっている。いや、喜ばしいんだけど。私いじけているのか。いや、家族を持つつもりはないんだけどさ。
オタクになぞらえるなら、友人二人同じジャンルにハマっていて、私だけハマれてない感じだろうか。うん、そりゃ寂しいね。
しばらく通知をオフにすることにした。仕事もクソ忙しくて精神に来てるのもあるし。


本当は、出会って20年目の時に彼女と何か記念のものを作りたかった。でも口にする前に妊娠がわかったので、結局何も。30年目の時には何か出来るだろうか。その時まで私たち付き合っていければいいなと思うけれど。
息切れしてしまわないために、今は離れた方がいいのかもしれない。
私は彼女のことが好きだから。

お仕事

私の仕事のひとつに、人が子供を産んで育てる手続きを行うというものがある。
最近思うのは、使う言葉とかたちを押し付けていないだろうかということ。

旦那、嫁、なんとなく使うのが憚られる。ここ数年。それは自分が使いたくないと思っている。と同時に、相手の主義がわからないから抵触しないものを使いたいという気持ちがある。ニュートラルになりたい。だから「配偶者」を使うけれど、単語が長えなと面倒になる時もある。そんな時は「あぁ……使ってしまった……」と思うので、やはり使いたくない。続柄として正しいはずの「妻」「夫」が大げさに聞こえるのはどうしてだ。
産休育休を考えることは自分の働き方を考えることだと思っている。休業期間をどう決めるのか、復帰後どう働くのか、自分で考えるのはもちろんだけど、一人で抱え込んでしまうのもどうか……と思って「ご家族や課室長とも相談した上で決定してください」と言ってきたけれど、最近「ご家族」ってなんだろうなと思うし、一人で抱え込むのが本当に悪いのか、一人で考えたい人にそれはどうなのか、やむにやまれず一人でしか考えられない人だっているかもしれない、とも考え始めたらぐるぐるときりがなくて疲れた。「配偶者や課室長とも相談〜」と言わなかったことだけは進歩だ。まだ担当してはいないが、これから担当する人に配偶者がいるとは限らない。
余談だけど、家族で名前が違うのを何故、と言われる現状はやっぱりしんどい。戸籍制度しんどい。姓を変えることを愛の証みたいに捉える人までいるのはしんどい。そんな奴隷みたいな愛はいらない、と思うけどそれは私の考えでしかない。

自分の主義や思想を思えばこそ、せめて自分が嫌なことはしたくない。んだけど、「通例」「慣例」は便利だから飲み込まれてしまう。ちょっとしんどい。
せめて、今は思い込みを捨てたい。

解放

あ、と思ったのだった。
弟が転勤で我が地方に帰ってくるという。助かったと思った。頭の片隅にずっとある、親の介護のことだ。何かあったら私が行かねばならないと思ってしまっていた。実家へは距離があろうと逃がさない、絶対に介護は姉弟ふたりでやると決めていた。じゃなきゃ認めない、苦労したのに喪主になれないのなら、と思って弟を呪っていたのだが。長女の呪いだ。長女の呪縛だ。家を捨てられないのを自覚していたから。
でも、弟が近くに住まうなら、もう私はどこにでも行けるのだ。気にせずに。私が転勤したっていいのだ。たからづかがあるから動きたくないけど。
それは家を捨てるのではなく。
出て行こう。ひとりでどこかに行こう。私の暮らしを作ろう。そんなことを思えた。

最近の静かな怒り

最近のにじおた、「同担拒否」「担」と言いながら何故好きな対象のことを「推し」と呼ぶのか。用語使うなら貫き通せ!!!!!!!!!!! 担ぎたいのか!? 推したいのか!?!? 半端なことすんなよ、用語使ってそれっぽくなるなよ!!!!!!!!

朝に思う

結局、グループとして全員揃った状態を見ることがないまま、解散してしまった。
その文字を見た時にずーんとしてしまったくらいには、彼のことを別に嫌いになって離れたわけではない。

ジュニアのグループは自然消滅が基本で、解散と明言されることなんてないと思っていたので今年に入ってから2回も解散の言葉を聞いて驚いている。それはどうやら、メンバーの不祥事・不始末のけじめとするために使うようになったようだ、あの事務所。別にいいんですけど。いいんですけども。ただ、連帯責任ってなんなんだろう。何の連帯だ?
前社長が命名したグループ名なんだけどな。グループ名に人数入れるのやめろと思ってたけど。なんだろうな。
グループがあるから、アイドルの活動で一番望んでいるコンサートが出来る。彼のお仕事に舞台が増えてきた時に「興味がないな」と思って、少し離れようと思ったくらいには、コンサートが見たかった。今回のことで厳しいなと思っている。それでも食らいつく彼のことを得体の知れないもののように見ていた節があるけど、今回ばかりはわからない。てらいもなく、デビューしたいと言っていた彼。俳優として好きなあのメンバーは舞台仕事でこれから行ってもらっても嬉しいと思えるけど。彼は、彼の立つ場所はコンサートしかないと思うから、それがどうなるか。どうなるのか。

飛びたい

声おた業、それに伴う二次元おたく業に復帰したが、とてもよろしくない。
心がどんどん濁っていく。

多分、今の私は二次元おたくたちが嫌いだ。復讐の心で嫌いだ。10年くらい前の二次元おたくをやっていた頃、同人活動において、私はセクマイのようなものだった。女性向同人の恋愛脳ぶりに吐きそうだった。そもそも番い思想がしんどかった。また、性癖は地雷と呼ばれることが多かった。カップリングは逆王道が多かった。現状最後の自ジャンルと呼んでいる、同人活動していたジャンルでようやく息がしやすくて楽しくてマイノリティにならなかったものだった。解釈違いはあれども。だから、Twitterが同人者に普及した後に頻発する学級会は嘲笑している。そんなことを言って、私のようなサークルをありえないと言ってきたくせに、みたいな。あれらを気持ち悪いと思っている。
だって、自分の好きなものを声に出すたびに「異常」「ありえない」「ない」とずっと言われてきたんだもの。疲れた。

そして声おたも嫌だ。各種おたくの中でも一番最悪だと思っている。でも他のおたくなんてどうでもよくて、一番しんどいのは本人に傷つけられてばかりの世界だからだ。幸い、私が「好きなせいゆうさん」と呼んだ人たちには傷つけられることはなかったけれど。要はかつての窓系列担のようなことが起きてばかりだ。なんであんなに露呈する界隈なんだろう。令和では意識が変わるんだろうか?

そこに戻るのが嫌だった。
だから、なりたくないなりたくないって言っていた。
そして、既に、あの頃みたいに世界を呪って、わざわざ嫌味ったらしく、いちいち全てを言及してしまう自分がいる。
さらに、懐古BBAぶりが酷い。あの頃はあの頃はあの頃は、うるせえよ。本当に嫌だ、こんなくすぶった鬱々した気持ちは久しぶりだ。



というのが、ここ1ヶ月ほど。
過去の自分すげーみたいなpostばかりする自分は早く死なないかなと思いながらも、またpostしてしまう病。早く死んでくれ。

と思ったところで、私はこの10年でおたくとして自由になりつつあったのかもしれない。すとんと、ただただ好き、と思えるという。
じゃにおたを経て、たからづかにハマり、そこではっきりと己のおたくのやり方が変わった。やり方も考え方も。でもそれは相手がフェアリーだから可能な話かもしれないけれど。だけど、二次元おたくも同人も声おたも、以前のようなやり方でやる必要はないのだと今の私は思える。思い詰めて思い詰めてやるおたく業だって、それはそれで悪くないけど体力が必要で私にはもう体力はない。だけど私はそれでもおたくを名乗れる、名乗っていいと思える。悲観してこそファン、おたく、なんてもう思わないのだ。わざわざ辛くならないくても私はおたくだ、ファンだ。
だから、今の私のムードに合う声おた業・二次元おたく業を、私はもう選んでいいんだ。と思う。出来るかどうかはわからないけど。
とりあえず、懐古BBA postは控えよう。
postした後の自己嫌悪がやばい。初めてのジャンル、ど新規なんですよ、見るもの全て新鮮です!の気持ちで古巣を覗くのもいいじゃないか。素直に好きだと言っていいんだよ。わざわざ、あの大嫌いなファンたちのノリに自分も合わせる必要はないのだ。
おたくは一人でやるもの。その肚があるから、私はじゃにおたのことが大好きなんだと思う。憧れる、そうなりたい。個人サイト、個人サークルを経たおたくなんだから出来ないわけがないでしょ私。
やれんのか! やりますよ!